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第1話

 作況指数30。収穫量は前年の3分の1以下の11万9千トン、10a当たりの収穫量 152キロ。百年に一度の大冷害といわれた平成5年の稲の作柄が確定したとき、県農業試験場水稲育種科長、畠山均は「ヤッタァ!!」と思った。
 稲作農家は大打撃を受けている。穏やかでない話だが、畠山が心の中で快哉を叫んだのは畠山らが育てた県産オリジナル米の岩手34号(後の「かけはし」)が他の品種が壊滅的な生育状況にあるなかで、50%の不稔にとどまったからだ。同じ早生種の「たかねみのり」の不稔率が80%台だから、いかに岩手34号の耐冷性が優れていたかが分かる。

 その年の2月、岩手34号は奨励品種に決まった。育種チームキャップのアンカーを務めた畠山は、このときより寒さの夏を克服したときの喜びの方が大きかった。

挿絵 「奨励品種になるのは単なる通過点。農家が取り入れてくれなければ何ともならない。実っているのは34号ばかり。これで農家に採用してもらえるとの思いの方がずっとうれしかった。あんまり耐冷性が強いから、他県の開発ではないか−と青森県知事に言われた」

 昭和59年から、岩手独自のブランド米をつくろうと「日陰の男たち」が営々と重ねてきた努力が、確固とした形で結実したのだ。日陰とは、当時、岩手県では自前の米をつくるための育種は「不要」とされていたからだ。

 育種について県の基本的な考え方は、県北地方や山間部へ向ける早生種については、従来、提供されてきた青森県農試藤坂支場に任せればよい。藤坂支場はご存じ「フジミノリ」を育てた。県南地方や県央部の中生、晩生種はササニシキ、ひとめぼれを開発した宮城県古川農試やキヨニシキ、トヨニシキをつくった秋田県大曲市の東北農試水田利用部からもらえばいいということだった。

 こうした空気は県農政部の事務方ばかりでなく、現場の県農試にも濃かった。そのなかで石川洋、新田政司、木内豊、佐々木力の4人からなるチームが県農試に結成された。

 チームのねらいは水稲新品種の開発だが、これでは通らない。そこで当時、はやりのバイオテクニックを導入して「畑作物」の品種改良に取組むことを隠みのにした。キャップの石川は米栽培、新田は農業機械、木内は畑作、佐々木は組織培養とてんでばらばらの男たちによる金もない、施設もない、技術もない、ないない尽しの「バイテクチーム」がスタートした。

(当時の役職名使用、文中敬称略)

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